ダイキチ☆デラックス~音楽,本,映画のオススメ・レビュー

ダイキチデラックス

神のふたつの貌

貫井徳郎  2001年


神様の教えの中に「救い」はあると思うか

 私はキリスト教のことなんて何も知らない。信者ではないし、聖書を読んだこともない。そもそも仏教にしろ神道にしろゾロアスター教にしろオウム真理教にしろ信じる気など毛頭ない。しかし、宗教にはものすごく興味がある。一番興味があるのは、あんなにインチキ臭い嘘八百の話を、何故みんな信じるのか?という点である。私なんてジャンボジェットが空を飛んでいることも信じられないのに、処女懐胎だの生まれてすぐ「天上天下唯我独尊」と言っただのまともに聞くのもあほらしい。麻原彰晃が入った風呂の残り湯200ミリリットルに2万円払ってありがたがって飲むなんぞキチガイ沙汰である。信じる者は救われるらしいから勝手に信じている分にはいいのだけれど、せっかくの休日にエホバの証人が勧誘にやってくると殺意がわく。「汝の神、主の名をみだりに口にあぐベからず」という戒めを無視している阿呆どもが俺様の眠りを妨げやがってと思う私に勧誘中にぶち殺されても「これも神の御意志である」とか言って満足して死んでいくのだろうか。生きていくというのはとても辛いことだから、何かに逃避したり依存したりしなければやっていけないというのは分かるのだけれど、それが宗教だというのが理解できない。本作は、そんな不信心な私でも考え込んでしまう問題作である。

 早乙女は田舎町の教会の牧師の息子であり、神の存在は当然の事実と受け止めていた。しかし、あらゆる疑問に答えてくれるはずの神の声を、彼は未だ耳にしていなかった。人々に降りかかる災厄に対し、何故、神は沈黙し続けるのか。いくら祈りを捧げようと、いつまで経っても不幸はなくならないではないか。神は何故、不幸に満ち溢れた世界を創造しておきながら、何ら救いの手を差し伸べようとはしないのか。神は人類を見捨ててしまったのか。神の真意を知りたい。神の声を聞きたい。手塚治虫の『MW』に出てくる神父のようにホモに逃げることもできず、少年は一途に神を求め続けるのだが……。

 無責任なエンタテインメントではなく、読者に他人事ではないテーマを突き付け、重い読後感を与えることにかけては天下無双の貫井徳郎作品の中でも、破格の重みをもつ作品。ここにはミステリ的に解かれるべき謎は存在しない。いや、一応ミステリ的仕掛けは存在するのだけれど、そんなもの、どうでもよろしい。よほど初心な人でない限り、この仕掛けにはすぐ気付くだろうし、ラストに至って大きな驚きを与えるようなものでもない。もしデビュー作『慟哭』のような劇的な効果を挙げようとしたのなら、もっと別の書きようがあったはずだから、おそらく作者の意図はそこにはないのだろう。なんだか作品を貶しているように聞こえるかもしれないけれど、そうではない。本作で描かれるのは、人類史上最大の謎、「人が生きていることの意味」なのだから、狭義のミステリ的興味など吹き飛んでしまうのは仕方がない。作中では、純粋な事故(と思われるもの)も殺人も自殺も傷害事件も発生し、登場人物は皆、残酷な運命に翻弄されるけれど、どうしてそんな目に遭わなければならないのか、当然ながら理由は分からない。被害者の身内に真相が伝えられることもなく、ただ身近な人が不幸な目に遭ったとして受け入れるしかない。そんな理不尽極まる、しかし実に現実的な物語を、一介のエンタテインメントとして消費することなどできようはずがないではないか。こんなもの読まされて、一体私はどうすればいいのだ。一条の光すら射さぬ荒野に置き去りにされてしまったような読後感は比類のないものである。面白いよ!とお薦めするタイプの本ではないけれど、必読の作品であることは間違いないので、今すぐ手に取っていただきたい。


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